真実の色
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鳥の巣と言われる岩場があった。雨が少なく、一年中強い風が谷間を駆け抜ける荒廃した土地だ。まともな人間ならば、差し迫った用件でもない限り寄り付かない厳しい土地。そしてこのような土地に差し迫った用件がある人間もまた、まともではない。
しかし今、そのような荒廃した土地を一人の老人が歩いていた。谷に吹き込む強い風を全身に受けて、黄土に汚れた白いローブの胸元を掴み、そしてもう片方の手でフードを目元まで引き下げている。そうしなければ、強風の運ぶ砂が目に入ってしまうのだ。差し迫った用件ではないが、老人はこの谷間にある洞窟に居を構えた人間を訪ねて来ていた。この谷を訪れる人間がまともでないというなら、谷に住み着いた人間は、もはや人ではないというべきかもしれない。
このような人の訪れない場所を選び住み着いた男は、老人の精神的な友人であった。立場的には老人がその男の才能を見出し、教えた師弟関係にある。弟子は二年ほど前に師の下から独立し、そして酔狂なことにこの鳥の巣へ移り住んだ。彼には人里を避ける理由がいくつかあり、老人はそれを理解していたからこそこうして強風と戦いながら谷を奥へ奥へと進んでいるのだった。
すでに半時はこの谷を歩いている。老人はようやく見えた洞窟の入り口に、ほっと息をつこうとして咳き込んだ。迂闊に口を開きかけたために、喉に砂が入ってしまったようだ。老人は急いで洞窟の入り口に逃げ込み、そしてしばらく洞窟を外の砂から守る木製の扉の前で息を整えていた。すると、風の音にまぎれてしまいそうなその咳き込む音が聞こえたのか、老人の前で扉が内側に開かれた。
「……お越しになると思っていましたよ、ご老人。賢い白の友人殿」
そう掠れた小さな声で言って、戸口に姿を現したのは灰色のローブを身にまとった痩せこけた男だった。掠れた声から男の年齢を推察することは難しい。老人は扉を開けるだけで、すぐに洞窟の中へ入ってしまった男を追って洞窟へ入り扉を閉めた。
「思っていた通りの一声だな、我が弟子。灰の友よ」
老人は中へ入るとまずローブに付いた砂を落とした。フードまで取って念入りに体を叩くと、足元に落ちた砂の多さに老人は目を見張った。これではこの地に住みたがる理由を知っていても言わずにいられない。
「随分人里離れた場所を選んだものよ。ここまで来るのに骨が折れたわ。少しはこの老いた友人のことも考えたらどうかね」
思わず出た老人の愚痴に、弟子は苦笑して答えた。洞窟の中で、その小さな声は反響音も重なって非常に神秘的に聞こえた。
「僕は貴方のように社交的ではありませんのでね。それに、ここなら人目を気にせず研究ができる」
そう言う弟子に、老人は暗い洞窟の中をぐるりと見回して応えた。
「言うほど人目を気にしているわけではあるまい」
気分を落ち着ける作用のある香の匂い。簡素な木製の机の上には広げられた紙と、積み上げられた書物。ベッドはない。木製の長椅子と、その上に掛けられた薄い布一枚だけで眠っているようだ。洞窟は思っていたよりも寒くないが、心地よいという空間でもなかった。
「気にしていますよ。ことに近頃は大陸が不安定ですからね」
大陸の情勢を知っているのなら、食料を買い出しに、少しは町へ出ているのだろうと知って老人は正直安心した。まさか星見だけで世俗のことを知っているとは思いたくなかった。
「どこの大陸もな。……老いた師匠に椅子は与えられんのか?」
いい加減足の疲れた老人がそう訴えると、灰色ローブの弟子は薄闇の中で微かに笑った。
「気短なお方だ。さぁ、お座りなさい。薬湯でよろしいかな?」
「酒が入っていれば嬉しいがな」
机の前に置かれた椅子が老人に渡され、老人は早々にそれに腰掛けた。椅子は少しだけ軋んだ音を立てたが、老人の体をしっかりと受け止めた。そして弟子の申し出に師匠がふてぶてしく答えると、弟子はようやく被っていたフードを外し、その痩せた顔を師匠に見せた。
「分かりました。ご用意しましょう」
柔和な笑みの中でも、弟子の右の額から頬にかけて残る醜い火傷の跡が暗い影を落としていた。薄い金色の前髪で傷跡を隠しているものの、髪の裏で赤黒くなった火傷の跡はその存在を静かに主張していた。幼い頃に追ったこの傷跡を、そしてその傷を負わせた者のことを、この弟子は憎んでいた。傷跡と同じく、少しも薄れることなく。
弟子が人里を離れるわけは、単に彼が魔術師であるというだけの理由ではない。この顔をできるだけ隠すためだった。人々は魔術師を信用しない。それに加えて醜い傷跡。彼が人を避ける理由と、人が彼を避ける理由ははっきり一致していたのだ。
「……研究は進んでおるのか、レフ」
「手に入る書物で得られるものは、もうすべて得ましたよ、お師匠様(シェラーフ)」
その言葉で、老人はまた机の上に下に詰まれた書物を見た。中には老人がかつてこの弟子に与えたものもあったし、弟子が独自に手に入れた他の大陸の書物もあった。すでに読み終え、内容もすべて記憶してしまったような本は、生活のために売ったのだろう。それを鑑みると、弟子がその小さな頭の中に入れた書物は幾冊になることだろうか。
「それでは外に出るつもりか」
外。それはつまりこの谷を出て、人々の住む町へ。そして国という枠組みの中へ。老人がそう問うと、弟子は片手に納まる椀に酒を混ぜた薬湯を持って老人へと差し出した。
「……えぇ、そうですね。白の大魔術師ティマウェイ殿が住処を離れる決意をしたならば、僕もここに居続けることはできないでしょう」
老人は薬湯を受け取りつつも、弟子の言葉に片方の眉を吊り上げた。老人は確かに一部では白の大魔術師と呼ばれているが、自身ではそんな大袈裟な名称を名乗ったことはない。弟子はそれを知っていてこうしてからかってくるのだ。
むっつりと薬湯を口に含み、老人は一度立ち上がると洞窟の扉を開けて素早く含んでいた水を吐き出した。そして扉を閉めると、また元の椅子へ戻って、今度は薬湯を飲み込む。薬湯の調合法は、かつて老人が教えたものとほとんど変わっていないようだった。
「レフ、どの国から招聘されたのだ」
薬湯の中に入った上等な酒に――酒には金を惜しむなという師匠の言葉まで弟子はしっかり守っているようだ――頬を若干赤らめながら、老人は薬湯を飲み終えた椀を弟子に手渡す。それと共に師匠の言葉を受け取って、弟子は火傷で引きつった口をさらに歪ませた。
「それは買いかぶりです、お師匠様。僕のところになど、誰も来ませんよ」
その言葉に老人は鼻を鳴らす。買いかぶりではない。老人はこの弟子を教える前にも幾人かの弟子を世に送り出したが、どの弟子よりも――そしてもしかしたら師匠である自分よりも――この弟子は魔術に秀でていた。国がこの男に目を付けていないのは、単純にその存在を知らないからだけに違いない。
「それではどこの国に行くつもりだ」
弟子は更なる老人の問いを背で受け取った。そして椀を地下から汲み上げた水で洗うと、ようやく振り返って老人の問いに答えた。
「貴方は貴方の思う善の国へ。そして黒の魔術師は悪の国へ。ご安心なさい、大魔術師殿。僕はどの国にも付くことも考えていません。生活のために小さな魔法を使うことはあるでしょうけれどね。灰色のローブを選んだのは僕自身です。僕は中立の人間ですよ」
その答えを弟子は老人の見慣れたシニカルな微笑と共に吐き出した。しかし老人は弟子の言葉を素直に信じることは無かった。弟子の中にある深い憎悪の気持ちを感じていたからだ。それは灰よりも黒に近い感情であり、年を重ねてさらに黒に近くなってきている。
「灰……白でも黒でもない。しかし灰色は白にも黒にも容易になれるものだ」
その老人の苦言に、弟子は優しく告げた。
「そして貴方は、お師匠様。僕を弟子にしたことを後悔していらっしゃる。僕に魔法を教え、灰色のローブを着せたことを後悔しておられるのでしょう」
「ふん、馬鹿なことを言うでない。お前は儂が教える前から魔法に見込まれていた。魔法に、な」
それは諦めの言葉でもあり、絶望の言葉でもあった。結局白の大魔術師と呼ばれる自分でも、この弟子に白の影響を与えることはできなかったのだ。弟子は魔法に見込まれていた。灰色が正しいのかもしれないし、もしかしたら黒の魔法だったのかもしれない。しかし確実に白ではない魔法に。
「神々ではなく、魔法に。それこそ僕の望む言葉ですよ、お師匠様」
深く絶望の溜息をついた老人に、弟子は幾分声を和らげて言った。しかし声音が柔らかくなろうとも、その言葉は冷たい。
「だからこそ、お前は神を恐れないだろう」
魔法だけに心酔する男。彼の中心は人の生み出した神でも、現に生きる人でもない。魔法。捉えどころのない観念だけを、彼は崇拝し畏れる。
「神を恐れて何になります? 彼らは僕に何の影響も与えないでしょう。貴方にもね」
「果たしてそうだろうか、友よ」
「さぁ? 真実を得る。そのために我々は魔法を学んでいるのではありませんか?」
我々、というけれど魔術師の中でどれだけのものが真実に目を向けて、それを追究しようと思っているだろう。魔術師は自己中心的だ。それは魔術師ではない人々がそう決め付けているだけのものではない。魔術を学ぼうとする人間は自己を見つめる必要がある。それが結局のところ、他人を避けるきっかけとなり、真実を追究することでそれ以外のものを害する可能性があるのだ。
「真実を、な。一生かけてもそれを得られるかどうか……」
やがて魔術師は真実を追究するために自己を見つめることになる。追究の道程で歪められた自分の姿を。老人はこの若者ほど、真実を知りたいと思っているわけではなかった。今更真実を知ったところで、老人から何が生み出されるだろう。だが、そんな老人の心の内を知ってか、弟子は宥めるように続ける。
「お探しなさい、白の賢者殿。真実は竜退治の伝説共にある。僕はそう考えていますよ」
老人はその言葉に驚いて無意識にいじっていた髭を強く引っ張ってしまった。
「竜退治の? 一体お前の求めている真実とはなんなのだ」
竜退治の伝説とは各大陸に様々な形で残っている御伽噺のようなものだった。異世界から現れたという巨大な生物と、この世界に住んでいた若者マグワルの――勿論この名前は地方によって違う――戦いの話し。しかしこの御伽噺に真実を知る手がかりが残されているとは思えなかった。
「魔法です」
師匠の問いに、弟子は短く答えた。
「魔法、とな?」
「そうですよ。我々の使っている魔法です。白と黒と灰。そしてそれ以前の魔法です」
愛おしそうに机に積まれた本を撫でる弟子の姿に、老人は言葉を失った。本当はこの弟子をこの巣から連れ出し、以前のように二人で旅をするつもりだったのだが、老人の道と弟子の道はすでに違ってしまっているようだった。
「……灰の弟子よ、我らは再び会えるのだろうな」
「勿論です。貴方が真実を求め、その頭を使い続ければね。考えているうちは死にませんよ、ご老人」
「ふん。お前よりは長生きする可能性があるだろうよ。儂は大陸を渡る。この大陸はきな臭くてかなわん」
老人は小さくない失望感と共に立ち上がった。ここを出る時には、弟子もまた一緒にという希望を持っていたのだから当然だ。しかし行く道が違う者が一緒に旅することはできない。後はもう二人の道が交差する場所を求めて歩くことしかできないのだろう。弟子はすでに師の手を離れてしまったのだ。
「どこにいても竜退治の話は聞きますよ、絶対にね。またお会いしましょう、友人殿」
「あぁ、そうしよう、友よ」
そう答えたけれど、本当にまた会うことができるのか、老人には確信が持てなかった。もう一度どこかで、師匠と弟子、そして年の離れた友として会うことができるのか。果たしてその時、弟子は今のように灰色のローブを着ているだろうか。
弟子に見送られて、老人は荒れた谷を歩く。後ろから吹く強い風は老人の白いローブを砂で汚した。けれど確かに、老人のローブは白だった。そして老人を見送り、自分の住処へと戻る灰色のローブは、洞窟の影で限りなく黒に近く見えたのだった。